BOSSの思ひ出

THA BLUE HERBが好きでその存在はele-kingによって知らされたけど、LBのようになよなよしてなく「証言」のようにいかつくないMCで、ポエトリリーディングスタイルで、でも静かに怒ってて、ラップがときどき陥ってしまいがちなダジャレ感がないし、トラックも当時のアブストラクトっぽくて気に入ってしまった。DJ KRUSHがやってた流というグループのゲストで参加していたのが、私がBOSSのラップを聴いた最初でした。
流でカッチョE! と思ってアルバムを買って、初期曲の「SHOCK SHINEの乱」が「証言」の影響モロ受けている! と思ったけど「あの夜だけが」に出てくる固有名詞がぜんぜんわからんと思ったけど、ワシはもう日本語ラップBLUE HERBしか聴かん、と思いました。でもその後、モーニング娘。のラップを聴いて喜ぶにんげんになったのだから、にんげんのことがようわからん、いちばんこわい、とサトリのように思うのだった。BOSSをあがめていた私は「お前のゲージュツとやらに幸あれ」と言ったRHYMESTARは嫌いだったし、お前たちが時代が変わることを拒んでいるのがよくわかると、スネアの一つも生み出していない私が思ったのだった。
でもBOSSはだんだん丸くなって、「この夜だけは」でいいコヤジになり、ゴルファーの石川りょうくんのCMに出たりして私はびっくりしたけど、もっと最近になると「今も二枚使いしているのは証言」とか「かつてぶつかりあったMC調子どう?」とか「そうだろう?YOU☆THE ROCK」とか仲直りを求めるラップがすごく目立つのであった。「昔からボスと呼ばれてた」とか威張ってたのに、「俺もボスの一人」と、ブッダが一人から多方世界に展開したようにBOSSの概念も広がってしまった(あとBOSSは最近の政治に怒っていて、アルバム『TOTAL』ではそっち方面のリリックが多く、これも素晴らしくて、これについてはまたこんど書きたい)。
そんな私もBOSSの軟化にともないRYMESTARとかもさかのぼって聴こうと思います。以上BOSSの思ひ出でした。

スチャダラダラした目から見たもの

スチャダラパーは聴いていた。しかし、ユーモアが苦手だった。今は「あれはあれでよかった」と思うし音楽はユーモアだけではないので、つまりそれを聴いていた10代の私は電気GROOVEの歯に衣着せぬトークが好きだったので、物足りなかったのではないか。
あと、L.B.Nation周辺ではキミドリが雑誌のele-kingで紹介されていたのでCDを持っていた。アルバム『キミドリ』は「つるみの塔」が中学生が大人に悪口言ってる感じしかしなかったけど、後に出た「Oh, What a Night!(オ・ワ・ラ・ナ・イ)」は今でもたまに聴くぐらい好きである。かの有名なスチャダラのブギーバックと同時期ぐらいに出たパーティー賛歌だったけど、テーブルのピザをビールで流し込んでお調子者が突如登場、みたいなホームパーティ感はなく、「終わらない夜 君のこと 踊り続けよう こんな日は」という女の鼻歌が耳をからかう、いつまでも音楽が終わらない都会のクラブ感がする格好よい曲だった。
私は電気GROOVEが好きで、ele-kingを真に受けて、デトロイト・テクノを真に受けた10代だったため、高校生のくせにテクノのクラブによく行っていた。テクノは歌がないし、ストイックに四つ打ちのビートが延々と流れる。PLASTIKMANやBasic Channelが流れると歓声が上がる世界なので時々辛くなり、5分ごとに時計を見るような状態になるが、テクノが好きなので帰れない。本当に辛い。そういうとき、頭の中にキミドリのMC、KURO-OVIの「オワラナーイ!」という声が頭に浮かんだ。終わらないなあ、終わらないなあ、と思ってたら朝方、最後に「Hi-tech Jazz」や「Step to Enchantment」などのわりとメロディアスなテクノがかかって終わる。
今ネットで調べると、ブギーバックが94年、オワラナイが96年、LAMP EYEの「証言」が96年ということだから、このあたりの時系列は今から見るとごっちゃになりそうだけど、あとはダヨネも94年だという。LAMP EYEのYOU☆THE ROCKの「スチャダラダラした目から見たもの」というリリックは、スチャダラに感じていた私の違和感と共通していたけど、全体的に「なんか怖い!」という印象が強すぎた。私は不良が怖いのである。
2011年になってスチャダラのライブを見た。大震災の年だ。東電に向かってちょっと政治的なことを言っていた。客層がみんな30代後半以上の感じで家族連れもちらほら。懐メロだ。すごく楽しかった。スチャダラダラしていた。相対性理論も出てた。スチャダラに対するわだかまりも消えた。スチャダラダラした目も必要だ。そのしばらく後、原発反対デモでシンコもサウンドデモでDJしていた。好きなミュージシャンが反対しているから原発反対だ。今から都知事選の投票に行きます。原発だけではなく、ちゃんとスチャダラダラした生活が送れる、社会福祉政策をちゃんとやりそうな候補に投票します。

幼少の頃のラップの記憶

ラップというものを認識したのはいつ頃だろうか。
吉幾三がなんかしゃべっていた記憶がある。「雪国」の替え歌を志村の番組で見てげらげら笑ったのが小学校高学年頃だから、「オラこんな村いやだ」はそのちょっと前だ。「ねえ」づくしで韻を踏む手法はジャパニーズヒップホップの黎明期ならでは、だろう。志村の番組では「そばにいて少しでも」という「雪国」の歌詞を、「そばにいて少しデーモン」と歌ってデーモン小暮が出てきた。
あとは「悪魔くん」と「新ビックリマン」のエンディングテーマだ。「生麦生米ヨナルデパズトリー」とか「バラバラバラエティ」などのライムが印象的で独特のフローだった。
メジャーフォースなんか知らない。大阪のド田舎(ゲットー)にはそんな文化は入っとらん。スチャダラは「出る出るゼルダの伝説」とかしょうもないダジャレを言う人という認識だ。私のリアルは吉幾三だった。「よし、行くぞ〜」。洒落ているではないか。
話は変わるが、真珠湾の日本人捕虜収容所でいちばん多かった収容者の偽名は「長谷川一夫」だったそうだ。日本語をちょっとしかできない米国人職員に、少しでも有利な立場に立とうと日本語でまくし立てる。米国人は舐められないように分かったふりをするが、旧日本兵はそれで見下す。真珠湾の捕虜の待遇は、日本の南方戦線と比べたら天国のような場所だった。食事もあるし手荒なこともされない。そんな場で日本兵の自尊心が醜い形で現れる。
そんなとき、戦前の北海道で育ち、日本語がぺらぺらの、しかし見た目は生粋のアメリカ人職員が登場した。100人の新参捕虜を集めて、流ちょうな江戸弁で「この中にハセガワは何人いるか?」「じゃあカズオは?」と聞くと6人の日本人が手を挙げたという。
そのアメリカ人が捕虜の名簿を見ていた。「近藤勝蔵」という名前を発見する。「今度勝つぞ、か。アメリカ人を舐めてるな。よし、いっちょ締めてやろう」と近藤の部屋に行くと、そこには気の弱そうな、東北弁で害のなさそうな老人がいたという。本名だったのだ。
吉幾三が本名なのか偽名なのかは知らん。そんな疑問はググれば解消するかもしれないが、確認するだけ無駄。どうでもいい。めんどくさい。書くのがめんどくさくなったので終了。このブログはこれで終わります。続きを書いて欲しかったらお金をください。では。